寺伝(簡単な歴史)
宝蔵寺は、文和3年(1354)曹洞宗明峰派の高僧宝山宗珍大和尚(ほうざんそうちん)を御開山とし、外護の檀越冨樫左衛門誠白によって開基されました。 曹洞宗開祖たる高祖道元禅師様より7代目の法弟である宝山宗珍大和尚は、明峰派の祖と仰がれる明峰素哲大和尚(めいほうそてつ:加賀冨樫氏の出であるという)の弟子、玄路統玄大和尚(げんろとうげん)の法を嗣ぎ、加賀の永安寺(廃寺:開山玄路統玄大和尚)の2世で、洞谷山永光寺輪住18代となり、冨樫大守某氏(歌舞伎の『勧進帳』でおなじみの冨樫氏の傍系)の招きで永祥寺(廃寺)の開山始祖となりました。 その後冨樫氏は、宝山宗珍大和尚を拜請し河北郡能勢に一族の菩提寺として白宮山宝蔵寺を創建しました。しかし、冨樫左衛門誠白(出羽冨樫家の初代:加賀冨樫氏の諸流)は文和の初年(1352)故会って主従十七騎と共に神宮寺に落ちてきて内館城を築き、さらに文和3年(1354)氏神の白山権現を勧請し宝蔵寺も加賀より移し、2代目福誠は、永徳2年(1382)8月に宝蔵寺堂宇を建立しました。 このことにより、宝山宗珍大和尚は加賀より羽州に初めて明峰派の禅を宣揚しました。又、二世智海定慧大和尚(ちかいじょうえ)は、宝山宗珍大和尚の14人の高弟中、最も傑出した一人で仙北地方の教化に尽力したといわれています。 文和3年(1354)に加賀より移されたとすれば、秋田市松原の補陀寺(貞和5年/1349年創建)についで、秋田県2番目の曹洞宗寺院ということになる。 本来の本寺である永安寺が廃寺となっていたため、11世中興大陽観月大和尚(だいようかんげつ)は、大乘寺(金沢市)と宝永3年(1706)本末関係のご縁を正式に結ばせて頂き、宝永5年(1708)梵鐘を作るなどの功績が認められ、御本寺様より中興を免牘されました。
歴代住職
- 開山 宝山宗珍大和尚 應永2年(1395)3月23日示寂 曹洞宗明峰派の高僧
- 2世 智海定慧大和尚 永享4年(1432)1月24日示寂
- 3世 揚山元讃大和尚 文明2年(1470)2月2日示寂 大仙市南外 常泉寺開山
- 4世 通岩正津大和尚 永正5年(1508)4月8日示寂
- 5世 松山文光大和尚 天文15年(1546)8月14日示寂
- 6世 岑庵全宗大和尚 天正12年(1584)3月15日示寂
- 7世 心巌元春大和尚 元和9年(1623)7月9日示寂 大仙市四ツ屋 福昌寺開山
- 8世 格庵梵越大和尚 承應元年(1652)10月20日示寂
- 9世 株山春昌大和尚 天和2年(1682)11月18日示寂
- 10世 安栄昌隠大和尚 宝永7年(1710)10月16日示寂
- 11世 中興大陽観月大和尚 享保16年(1731)4月25日示寂 大乗寺末寺となる。中興の祖
- 12世 潜巌観機大和尚 宝歴5年(1755)1月24日示寂 潜巌地蔵を彫る
- 13世 慧日機光大和尚 天明6年(1786)12月6日示寂
- 14世 祖柏的禅大和尚 文化5年(1808)6月23日示寂
- 15世 祖竹虎禅大和尚 文化9年(1812)7月18日示寂
- 16世 源隆泰良大和尚 文化7年(1810)1月18日示寂
- 17世 智棟良林大和尚 文化5年(1808)4月23日示寂
- 18世 快岳良慶大和尚 文政3年(1820)1月1日示寂
- 19世 大安黙牛大和尚 天保8年(1837)5月26日示寂
- 20世 大蔭柏庭大和尚 安政4年(1857)2月13日示寂
- 21世 威山金猊大和尚 天保12年(1841)9月29日示寂
- 22世 雪渓祖心大和尚 安政4年(1857)7月27日示寂 この方も地蔵尊を彫る
- 23世 笑山乾外大和尚 安政元年(1854)10月4日示寂
- 24世 佛國無門大和尚 明治3年(1870)8月5日示寂
- 25世 正海慈眼大和尚 明治11年(1878)12月23日示寂
- 26世 重興国常慈春大和尚 昭和5年(1930)12月28日示寂 大正11年現本堂を建立
- 27世 覚天洪岳大和尚 昭和32年(1957)10月3日示寂
- 28世 碩屋玄爾大和尚 令和2年(2020)4月14日示寂 鐘楼堂・位牌堂再建
- 29世 碩覚宏哉大和尚 現住職